壱岐島 勝本の歴史

文禄・慶長の役

1590(天正一八)年、豊臣秀吉は全国統一を完成。諸大名の国割が行われ、壱岐は松浦氏の領土となった。

1591(天正一九)年、秀吉は外征への最終的な決意を発表。 本陣を肥前名護屋とし、壱岐北部にあたる可須村の城山に勝本城を築かせた。 築城には松浦鎮信が中心となり有馬晴信、大村嘉明、五島純玄の三大名が支援。 城には秀吉の弟である秀長の家臣、本田因幡守正武が城番として在住。 五百人の家来とともに駐屯し、食糧・軍馬・武器などの海上輸送を仕切る兵站基地の責任者として活躍した。

1592(文禄元)年3月12日、先陣大将小西行長、付属大名の松浦鎮信、有馬、大村、五島某の勢二万余騎が勝本浦に船揃いし、夜半に対馬に向けて出航した(文禄の役)。

元文部科学省初等中等教育局視学官・聖母宮名誉宮司
吉野 弘一   文章

鯨組

捕鯨には突組と網組があり、壱岐島の突組は寛永(1624~1644)の頃に、網組は1677(延宝五)年に始まった。
江戸時代中期より勝本浦で栄えた土肥鯨組は、当時大阪において発行された富限者(長者)番付で、鴻池を第一とし、次いで土肥・三井と続き天下の大富豪と謳われた。
富の源となった捕鯨、その獲れた鯨を運搬・浜上げ・切捌きした田浦納屋場(勘定納屋、東大納屋、西大納屋、骨納屋、腸納屋、轆轤など)の様子を、江戸時代の文献「壱岐名勝図誌」で知ることができる。 土肥鯨組の全盛は四代目の土肥市兵衛秀睦の頃で、1767(明和四)年9月、本浦を開拓して人目を驚かす豪華な御茶屋屋敷を完成させた。 その屋敷跡には高さ七メートル、長さ九十メートル、更に左に数十メートルの巨大な石垣塀が残っている。

長崎県文化財保護指導員
壱岐市文化財保護審議会委員
松崎 靖男    文章

聖母宮

200(仲哀九)年、神功皇后は三韓への行き帰りに可須浦(勝本浦)にお立ち寄りになり、行宮(仮の御所)が建てられた。皇后は順風を待たれたこの土地を「風本」と名付け、帰るときに「勝本」とするようにといわれたという。

269(神功六九)年、皇后崩御。加須浦では皇后を聖母と称し奉ると共に、行宮跡(現在の聖母宮)に社壇を造り鏡を納めお祀りしたという。

717(養老元)年、異敵襲来のとき大風がにわかに起こり異船全滅。 元正天皇は、霊験ありしと勅使を使わし神殿造立。 この年を聖母宮の建立年としている。聖母宮の石垣、西門、南門は、文禄・慶長の役のとき大名宿舎(聖母宮前)に滞在した加藤清正等により造立された。

元文部科学省初等中等教育局視学官・聖母宮名誉宮司
吉野 弘一   文章

朝鮮通信使

この絵図は、1748(寛延元)年の第十回朝鮮通信使の画員として随行した李聖鱗が、 壱岐勝本浦に造られた朝鮮通信使の迎接所を描いたもの。
朝鮮通信使とは、朝鮮国王が日朝友好の証として派遣した使節団のことで、江戸時代は主に徳川家の新将軍就任を祝うために派遣され、その回数は十二回に及んだ。
通信使一行の応接は、通過する沿道の大名(平戸松浦藩)に課され、藩庁の役人は到着ひと月半ほども前から現地入りし万事に臨んだ。
1711(正徳元)年、通信使一行の三日間の饗応に費やされた品目と数量は、やまいも(1,500本)、鶏卵(15,000個)、スルメ(3トン)、米(7.5トン)、清酒(一升瓶で1,500本)、アワビ(7.5トン)という莫大なものであった。
1763(宝暦一三)年に来島した朝鮮通信使の随行員の南玉が書いた『日観記』には、「捕鯨将は壱岐島で最も富む者であり、通信使一行の接待をほぼ一人で担当」と記されている。通信使の一行は、正使、副使、従事官の三使とその随員からなり、三百人から五百人にのぼる大人数だった。

長崎県文化財保護指導員
壱岐市文化財保護審議会委員
松崎 靖男   文章